北海道特有の時代区分はどうして生まれたのか?

 日本の歴史は、誰もが学校で一度は習ったことのある内容です。しかしながら、その全土が足並みをそろえて、一様に発展したわけではありません。特に北海道は、その地理的に列島の中央部と離れているため、一般に習った日本史とは異なる発展を遂げています。

北海道文化全体の時代区分

 日本史のでは、原始、古代、中世、近世、近代、現代と時代を区分するのが一般的です。さらに教科書では、原始・古代は、旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安などとなります。

 日本史と北海道史を比べてみると、旧石器・縄文と明治・大正・昭和・平成についてはほぼ同じ区分でくくることができます。日本史の弥生時代から江戸時代にかけては、発展の仕方が大きく異なるために同じ時代区分で表すことは難しいのです。

 おおよその北海道文化全体の時代区分は下記のようになります。

北海道と本州における時代・文化の違い
(年表はおおよその目安であり精巧なものではありません)

北海道に人類が現れた後期旧石器時代

 旧石器時代は、打製石器を使用した猿人や原人・旧人の時代です。日本では1949(昭和24)年の岩宿遺跡発見で、初めて旧石器文化が確認されました。また、この時代は氷河期にあたり、世界的に寒冷でした。

 北海道では、少なくとも約3万年前から1万年前の後期旧石器時代に使われていた石器の存在が確認されており、後期旧石器時代に北海道で人類が生活していたことは間違いないようです。

続縄文文化の時代

 北海道内では、約500カ所以上に及ぶ旧石器時代の遺跡が発見されており、千歳市の祝梅三角山遺跡や上士幌町の嶋木遺跡、更別村の勢雄遺跡などが最も古いとされています。

 北海道の縄文時代は本州よりやや長く続いたと考えられており、紀元前後頃に「続縄文文化」へと移り変わったとされています。本州では大陸からの稲作の伝搬により弥生文化が栄えますが、稲作文化は北海道へは到達せず、土器も縄文の文様がつけられていました。これを族縄文土器と呼び、この時代から北海道は独自の文化形成をたどることになります。

オホーツク文化の時代

 縄文文化の終わりに近い5世紀頃、サハリン付近から海を渡って、北海道のオホーツク海側に住み着いた人々がいました。彼らは海獣などを狩猟する海の民と考えられています。遺跡などで発見された住居の大きさから、大家族であったことが推測されています。また、土器も縄文とは異なるこくもんや貼付文と呼ばれる文様がつけられていることから、この文化を「オホーツク文化」と呼んでいます。

トビニタイ文化の時代

 オホーツク文化が後期を迎えると擦文文化の影響を受け、両者の文化を取り入れたトビニタイ文化が発生しました。道東および国後島付近に存在し、土器や竪穴式住居もそれぞれの文化を融合。住居は海岸付近だけではなく内陸部へも広がり、クマの崇拝は続けられたとい言われています。トビニタイとは、出土物を発見した羅臼町飛仁帯(らうすちょうとびにたい)にちなんでいます。

擦文文化の時代

 8世紀頃になると、続縄文文化は「擦文文化」に移行します。擦文文化は本州の社会や文化の影響を強く受けて成立したと考えられていますが、まだ竪穴式住居と土器を使用していました。擦文土器は本州の土師器を(はじき)の影響を受けており、表面に木のヘラでこすったような跡が残っていることから、その名が付けられています。その後、擦文文化は、12〜13世紀頃にはオホーツク文化と一体化し、次のアイヌ文化へと移行していくことになります。

アイヌ文化の時代

 交易などにより本州社会の影響を強く受けた「アイヌ文化」は、住居も竪穴式から柱を土中に埋めて自立させた「掘立(ほったて)」に移行します。さらに、土器に代わる鉄鍋が本州からもたらされるようになったと思われていますが、数的に不足がちであったことから、本州の内耳鉄鍋を模倣した、内側に取っ手をつけた内耳土器が作られるようになります。

 その後、16〜18世紀にかけてはチャシが作られるようになります。チャシとは、「砦(とりで)」「かこい」を意味するアイヌの言葉で、近世の和人の記録には「城」「城跡」とも記されています。これら内耳土器とチャシが作られた時代をアイヌ文化の時代と呼んでいます。チャシが最後に使用されたのは、江戸時代後期の18世紀末です。アイヌ文化はその後も続きますが、考古学的にはこの時期までをアイヌ文化の時代としています。

 

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